答えは旅の果てに - 「世界はなぜ『ある』のか」を読んで

世界の根源
このブログにあるような温泉一人旅なんかしていると、宿の部屋にいる時間を持て余してしまうんじゃないか、と思われるかもしれない。また鉄道やバスによる数時間の移動に際して、何もすることがなくて暇すぎるんじゃないか、と思われるかもしれない。

大丈夫。暇なときは次の問いについて考えてみるとよい。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」「世界はなぜあるのか?」…答えは出ない上に、いくらでも時間を費やせるぞ。やったね。

だがこのテーマを時間つぶしの独り空想で終わらせてしまってはつまらない。しっかりしたバックグラウンドにもとづいて、かつ難解すぎない議論を一般向けに読みやすく展開してくれる本があれば、教養のため読んでみたいし、ぜひ旅のお供にしたい。

そしてそんな本は「ある」のだった。

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

究極の問い

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?…かの哲人ライプニッツが提起した究極の問いだそうな。そんなんで悩むのは中二で卒業しておけよと言われれば返す言葉もない。しかし歴史に名を残す多くの知の巨人達が中二を過ぎてなお大真面目に取り組んできたテーマでもある。

たしかに世界はなぜあるのかと問われてみれば不思議な気がする。なぜなら、もし何もなければ何もなくてすんだはずだからだ。完全な無は最も単純で、最もコストがかからず、最も平穏で、場所を取らないし始まりも終わりもない。だったら無で良かったんじゃないかと思えてくる。

一方で世界が現に存在するのは疑いようがない。そのせいでいろんなモノやコトがあって煩雑になるし、万物が物理法則にしたがって生々流転しなきゃいけないし、宇宙に始まりと終わりを与える必要がある(さもなくば永遠を与える必要がある)。宇宙さん、あれこれと面倒くさくないのかね。

暫定解では腑に落ちない

この問いに対するひとまずの落とし所は「現にあるんだから是非もない」もしくは「現にあることに対する理由なんてない、ただそこにある」として話を打ち切るスタンスだ。東京湾アクアラインを「作っちゃったもんはしょうがねえじゃねえか」とするハマコー方式。

しかし道路は政治家が大衆の空気を読んで作らせたという筋道が見えるからまだいいけど、世界についてはやっぱり釈然としない。もうちょっとスッキリさせてくれる回答が欲しいけど、自力ではそこへの糸口すら見えない。偉大な賢人が何らかの回答を与えてくれていないだろうか。

まさにぴったりの本

この件に関してちょうどいい本を見つけた。
  • ジム・ホルト著「世界はなぜ『ある』のか? ---究極の『なぜ』を追う哲学の旅」(寺町朋子訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
単行本を文庫化したもの。分厚いけどコンパクトだから旅の荷物に加えても負担にならない。ふだん考えないようなことを旅先で考えてみる助けになるだろうと、ある温泉一人旅に持参して読んでみたのであった。

これだけ分厚いんだから、著者はさぞかし考えに考え抜いた末、核心へたどり着いたに違いない。さあ答えを示してもらおうか。


究極の「なぜ」を追って

やばすぎるほどの百家争鳴

本書は、数学・物理学・哲学・神学の分野における名だたる大家がこの究極の問いに対してそれぞれに持つ見解を聞き出すため、著者が世界中を旅するという構成になっている。

その行為自体がうらやましい。いや、べつに名だたる大家に会いたいわけじゃない。世界中を旅するって話を小さくして、この問いを携えて全国各地の温泉地をめぐりたいだけなんだけどね。そんなことをすれば間違いなく仕事をクビになるから、不労所得もしくは1億円くらいの資産を作っておかないとだめだな。ちくしょう。

おもしろいのは、予想されたことではあるが、それぞれの見解がまったく合っていないことだ。ときに衝突してさえいる。つまり定説はないってことだ。世界がなぜあるのかに対する回答はいくつかの類型にまとめられるとしても、突き詰めれば各々に「ぼくのかんがえたさいきょうのこたえ」がある。

たいがいは当人の専門分野に依拠しており、たとえば、第一原因としての神・量子宇宙論・意識への還元・プラトン的な善のイデアなどが持ち出される。

はたして答えは「ある」のか

ただし登場する大御所の方々はさすが謙虚かつ誠実である。これで決まり・私ノ言ウコト信ジナサイのような物言いはしない。まだよくわかっていないとか、別の考えを持つ人がいるのは理解できますとか、自説の相対化と客観視ができているためにかえって信頼できる。

だからといって決定打になるわけではない。つまるところ著者にとっても自分にとっても、すっきりと納得して受け入れられる説は一つもなかった。では著者は結局、世界がなぜあるのかについて答えを見つけることができたのだろうか。

それができたのである。俺たちのたたかいはこれからだ・ホルト先生の次回作にご期待ください的な、もやもやしたラストかと思いきや、いい意味で予想を裏切ってくれた。

ホルト先生のベストセレクション

ネタバレにならないように注意して書くと、充足理由律(すべての真理には説明がある)と循環論法の禁止という2つの原理をもとにして、セレクターという概念の応用から導かれる結論は、身も蓋もない「世界は最も凡庸に『ある』」だ。えっ、そういうことなの?!

自分は著者の答えに納得したかといえば…うーん、まだ釈然としない。セレクター仮説を無批判に前提化してる気がするし、無を含むあらゆる可能世界の中からセレクターなりランダムなりで現実世界をひとつだけ選び出すという選別システムが、すでに是非もなく「ある」ことになってしまわないか。

ただし主張そのものは宇宙論の分野で唱えられる「マルチバースと人間原理」論に哲学的基礎を与えているようにも受け取ることができ、現代物理学との相性は良さそう。


我思う、ゆえに我あり

あー脳みそが熱暴走してきた。もう限界。本書を読んだからといって自分の考えが整理されたとか、もやもやが晴れたとかはないけど、いろんな考えに触れておもしろかったからいいや。世界はなぜあるのかに付随して生じる、無や無限の問題についても考察したいけど、それを書くには余白が足りない。

なんにせよ、こういう本を読める環境にあるってのは結構なことだ。成功・成長しなければならないという強迫観念に追い立てられるかのごとく、AIが世界を変えるだの、イノベーティブリーダーの条件だの、バカ・ケチ・ナマケは酢を飲まないだの、その手のタイトルのビジネス本や自己啓発本ばかりを読み漁るんじゃ肩が凝っちゃうからね。

なんの実利ももたらさない究極の問いを相手にできる時間的・精神的余裕があるなんて、若い頃から比べてみれば、我ながらずいぶん出世したもんだ。これって幸せなことかもしれないな、と我思うゆえに我あり。